2021年最大の訃報・神田沙也加の悲劇をめぐる「違和感」と「やっぱり感」【宝泉薫】
これはもちろん、遺族を思いやるという優しさの反映でもあり、同時に、保身の結果でもあるだろう。詳しく報じると、聖子を責めているみたいになり、同情的な世間を敵に回しかねないからだ。それらがあいまって、正義としての忖度が働いていると考えられる。
にもかかわらず、そのあたりをぼかしても報道が成立するのは、世間の「やっぱり感」を当てにできるからだ。聖子の不倫や最初の夫・神田正輝の女遊び、沙也加が中学で経験したイジメなどなど、さんざん報じられてきたため、沙也加の離婚や不倫、さらにはその最期についても、いろいろあって彼女も大変だったのだろうな、というコンセンサスが自然とできあがっている。メディアにしてみれば、この状況下であからさまに報じれば面倒になることをすっ飛ばしても済むわけだ。
ただ、それでいいのかという思いも禁じ得ない。「やっぱり感」を当てにするやり方は、受け止める人のイメージに左右されすぎるからだ。ちゃんと伝えたいことがあるなら、どう「やっぱり」なのかを具体的に挙げたほうがよいではないか。
たとえば、筆者は当サイトで年末に書いた「『聖子の娘』という宿命、神田沙也加、国民の『マイフェアレディ』として生きた35年の葛藤」という記事のなかで、聖子との不倫を告白した米国人俳優、ジェフ・ニコルスの『真実の愛』に出てくるエピソードを紹介した。
それは夫婦が別居したあと、聖子と沙也加が住む家にジェフが来ていたとき、正輝が様子を見に来て一緒に飲むことになり、その際、幼い沙也加が父親ではなく、愛人のほうになついていたというものだ。沙也加が生まれ育った「特殊な環境」の一例を挙げるための紹介だった。
とはいえ、聖子もそんな「特殊な環境」が娘にもたらす悪影響については心を痛めていた。自分自身が米国での活動のため、留守にしがちなこともあって、ジェフにこんな悩みを打ち明けたという。
「娘も学校でいろいろ問題があるみたい。母親も父親もそばにいないんですものね」
じつは不倫の背景にも、夫婦関係の冷却化がもたらした新たな恋への欲求、いわば、そういう情熱的なものがないと生きていけないアーティスティックな業があった。そんな自分を持て余しつつ、母親としては娘に申し訳ないという呵責の念にかられていたことが、この本からも感じられる。
そのあたりをちゃんと伝えないことには「NHK紅白歌合戦」を辞退したほどの聖子のつらさも深い部分で理解されないと思うのだ。